「うう……」


 七咲逢にとって、数学という科目は「壁」である。


 越えなければならない、高い壁。しかし、越えるにはよほどの覚悟と、胆力が要る。こと、数学に関して苦手意識を持っている逢にとって、数学の学習は非常な労力を要するものなのである。水泳の課題克服には果敢に挑む彼女も、数学の前では蛇に睨まれた蛙に等しい。自然、彼女の口からはうめきが漏れ、整った顔立ちに渋面を浮かべてしまっていた。


 テスト期間中、部活も無い平日の昼休み。普段は部活で満足に勉強の時間が取れない彼女は、勉強時間の足しにしようと、昼休み一時間の半分を図書館での学習に向けている。しかし、彼女の思惑とは裏腹に、勉強の進捗状況は、はかばかしいとは言えない状況なのだ。

「……平面……虚数……?」

 ぶつぶつ、と、逢の口からうわ言のような呟きが漏れる一方、教科書は10分前から1ページも前に進んでおらず、新たに広げられたノートのページもまっさらなまま、白い面を机上に曝している。

 敵――逢は目の前の教科書に、そんな感情すら抱くようになっていた。先に進めない。テスト範囲は、結構、――というか、洒落になっていないほど広いのに、この分野が、彼女を苦しめている――すなわち、複素数平面。

 捻じ曲がっていて、変質的にいやらしい――本当に。大体、なんで「存在しない数」なんてのが定義できるのだろう。しなくても問題ないような気がする。既に、そこからして理解できない。……複素数平面なんて分野、高校に無い時代に生まれればよかったのに。いっそ、この分野だけ丸々捨ててしまおうか。

 様々な思いが、逢の頭を通り過ぎていく。
 一人で立ち向かうには、あまりにも大きい壁。彼女は自らの無力を嘆き、マイナス思考に陥る自分を止めることが出来なかった。

「……ああ、もう」

 図書館という環境にあっては、大きい声を出すことは出来ない。だから小さい呟きに過ぎなかったが、それでも、彼女の苦悩を表すには十分すぎた。手を頭に載せ、苦渋の表情を浮かべた逢は、匙を投げたい気分に襲われ、鉛筆を置くと、椅子の背もたれに体重をかけた。




 ……少し、落ち着こう。
 彼女は思考を数学から離し、別の方向へと遊ばせる。




 これが、いつもだったら――




 ――そう、いつもなら。

 勉強、特に、数学という分野において、とても頼りになる「彼」が居てくれるのに。




 図書館でも、教室でも、カフェでも、あるいは彼女の、彼の部屋。付き合いはじめてから、一緒に勉強する機会はとても多い。そして、彼は逢が数学を苦手とすることを知っているため、彼女の理解度に合わせて丁寧に教えてくれるのである。

 その彼は、今、彼女の側に居なかった。理由は簡単、逢がこの時間に勉強していることを、彼に教えていないから、である。放課後や休みの日ならいざ知らず、昼休みにまで彼を勉強に付き合わせるのは、悪い。逢は、そう考えたのだ。

 だから、今日は自力でこの壁を乗り越えなくてはならない。
 そう、自力で。彼の助けを借りず、一人で――――頑張らないと、いけないのだ。

 彼女は、そう心得た。しかし、体はまだ、覚悟に追いついていなかった。さあ、鉛筆を持って――と思っても、手は動いてくれていない。……いや、もしかしたら、覚悟は決まった、と勝手に自分で思っているだけで、心の奥底では、まだ委縮しているのかも知れない。


 ……ほんとに、もう、


 こんなことじゃ、先輩とのお昼を犠牲にした意味がない――


「逢」
「?!」


 と、そのとき。
 逢の肩に、ポン、と、誰かが軽く手を置いた。


「せ、先輩?」
「うん」


 驚きの声を上げ、振り返った逢の視界に、微笑んだ彼の顔が入る。


 ……なぜ?
 いったい、どうして。
 私は、ここにいる、とは、彼に伝えてもいないのに。


「あの、えっと……」
「やっぱり、ここだったね」

 何を、言ったらいいのか。
 戸惑う逢を他所に、彼は逢の隣の椅子を引き、腰を下ろして、持っていた文庫本を机に置いた。

「せ、先輩は、どうしてここに?」
「ん? そりゃ、逢がいるって思ったからね。テスト前の昼休みの用事なんてそれくらいしかないし。教室じゃなかったから、多分ここかな、って」
「そ、そうでしたか……」
 洞察力が高いのか、鈍いのか。この人は本当に分からない、と、逢は内心苦笑する思いだった。「用事」ということから自分がここに居ることまで割り出して見せた――のに、逢が気付いて欲しいことを、時折華麗にスルーしてしまうこともある、朴念仁。今回だってそう。「迷惑をかけたくない」と思ってぼかして伝えたのに、彼はそこには全く気付いてはくれていない。

 さて、本当の彼はどっちなんだろう?
 いや、両方とも彼は彼、か。


 ――心底、楽しい、と思う。
 逢は、そんな彼が、心から気に入っている。


「勉強なら、言ってくれればよかったのに。数学、今回は複素数平面だっけ」
「……」

 そう思った側から、彼は逢の思考を証明するようなことを言ってのけた。



 ……違うんです。敢えて、言わなかったんですよ、先輩。
 ……でも。



「くすっ」
「? 逢?」
「……ふふ……いえ、なんでもありません」



 もう、いいです。
 先輩がそういう人だって、私、知ってるんですから。



 頬を少し赤らめながら、逢は楽しそうに微笑んだ。彼から感じる、底抜けの、まっすぐな想い。

 心地よい。この人の隣が私の定位置で、本当に嬉しい。

 ……うん。

 やっぱり、この善意に甘えてみるのも、いいのかもしれない。いつか、お返しできるときは、きっと来るだろうから。



「先輩」
「ん、……って、逢?」


 逢は、教科書に伸ばそうとしていた彼の右手に、そっと自分の左手を重ねた。


「そう、複素数平面なんです。概念自体が良く分からなくて……」
「う、うん。初見だと、とっつきにくいよ、ね……」


 彼の気持ちが、手のひらから伝わってくるようだった。そのあたたかさを、愛している。彼がいれば、どんなに難しい問題でも、立ち向かえる力が湧いてくる。そんな彼に触れていたい、と思うのは――少し、我侭だろうか? しかし、逢は、そう思うことを抑えることは出来なかった。


 それが、人を好きになる、ということで。


「そうなんですよ。存在しない数字、って言われてもピンと来なくて」
「でも、考え方のコツを最初に覚えておけば、分かってくるもんなんだ。いい? 『回転』と『座標』がキーワードで……」


 昼休みは、あと二十分。そんな「好きな人」が、自分の側にいてくれる幸せ。
 噛み締めて、彼の好意に応えられるよう、しっかり勉強しないと。
 逢はそうを思いながら、彼の講義に耳を傾け、ノートに鉛筆を走らせた。








 小品ですが、「彼女と勉強編」をお送りしましたw

 生徒やってると、いつでもつきまとってくるのが「勉強」ですが、逢さんが側に居てくれるようになったらイチャイチャしながら一緒に勉強するに決まってるよねこの二人!という思考からお送りしておりますw そんなわけで、「勉強」をテーマにしたネタは結構な数が脳内にありまして、これはそのひとつだったりするのです。

 イメージとしては、アマガミ昼休みパートの1イベント、ですね。もちろん、付き合って後の話ですが、そんな感じで読んでいただければ嬉しい限りですw 「勉強」編はまた色々書いてみたいと思いますw これに続くイベントが放課後にあっても面白い、かもしれませんね。

 あと、ツイッター上でもアマガミ談義は結構盛り上がっていますw 今度、知り合った方々のHPにリンクしてみようかな、と考えていますw

 それでは、お読みいただきましてありがとうございました!

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